人間愛を学ぶ入り口として

鍼灸マッサージの役割:共生からの考察

仏教・慈悲に潜む危険性

法華経 普賢菩薩勧発品第二十八には、「この経典を受持し、読み、唱える…人を軽蔑し攻撃」する「ならば、これによって受ける罪の報いは生まれ出る世ごとに眼の無いものとなるのだ」とあります(濱塚,2006)。新村(1995,p.61)は、このような「病の仏罰観・業病観は仏教医学の本筋ではなく、因果応報を主題とした仏教説話のなかで、また唱道者が布教の方便として語ったものであり、民衆のなかに広く浸透したことによって、それが仏教医学の中心をなすがごとく思われるようになったもの」といいます。けれども、横井(2008)は「『五体』に直接現われる形質の『現世』での不利益が…平易な形式をとる説法で展開されたとき、…まるで水の浸み入るようにゆっくりと、…差別的認識を整序・定着させてゆくことになった」と指摘します。

「慈悲の心というものは、人々の内にある好ましいことを見つけだしてその長所を観察することであるが、もしも貪欲の病におかされている人が他人の内に好ましいことを見いだしてその長所を観察するならば、きっとますます貪欲になる」と戒められています(大智度論)。「単なる信仰・儀礼・儀式ではなくて、…真の宗教は心情の教育であり、心情と心の実践である」(中村,2012)。けれども、世俗の価値観に縛られたまま仏教の慈悲を学べば学ぶほど、仏教への誤解と貪欲は深くなり、老いの衰退・喪失への苦しみを増すことが懸念されます。


人間愛を学ぶ入口として

鍼灸マッサージの学校養成施設において、一般には宗教である仏教をことさら深く学ぶことはしません。現在の鍼灸マッサージ教育は、仏教が紡いできた慈悲を語る言葉を失った状態にあります。そのような鍼灸マッサージが、仏教の慈悲を取り戻そうとするなら、仏教と同等の人間愛を諭す別の入り口から、老いの衰退・喪失への慈しみの心を学び始める方が、間違いはなく安全ではないでしょうか。

野上ら(1991)は「漢民族が仏教を受容する」態度について、「仏教が中国へ入った漢代に、漢民族はすでに高次の固有文化を築き上げていた」ので、「全く異質の文化が入り流布するには、まず中国人の思想・信仰と共通する面を媒介としてゆかねばならぬことは明らかである」として、漢末の「儒・仏・道三教調和の思想を基本とし」た理惑論を示しています。論語によれば「『仁』は、人間愛」です。儒教が人間愛として示す仁の精神は、鍼灸マッサージが仏教の慈悲を取り戻すための学びの入り口になるかもしれません。


医療倫理という人間愛

「医師の職業倫理というべきものが記されたわが国最初の医書は、十世紀末に丹波康頼が編纂した『医心方』である」が、これ「を説く段は隋・唐初めの孫思邈の『千金方』に全文依拠したものである」(新村,1995,p.35)。「孫思邈は儒・老・仏の三者に通じた人物で」あり、「仏の衆生をあわれむ『大慈』の心と、『仁の端なり』と孟子が解する『惻隠』の心が医師の職業倫理の基本にすえられ」、「後世においては、それらは『医は仁術なり』の言葉に集約され」たといいます(新村,1995,p.36-37)。

養生訓では「医は仁術である。仁愛(ひとを愛しひとを思いやる)の心を本とし、ひとを救うことを第一の志とすべきである」と説き、「およそ医者を志す者は、まず儒書を学び、その文義を理解できるようになっておくことが必要である」と言い添えています(貝原,2007)。仁術という我が国の医療を支えてきた倫理は、西洋医学が主流の現在においても、色あせることなく尊重されています。


問題解決の根底にある共通の道標

若倉(2003)は「死生学の応用と違い」として、キューブラー=ロスが示した「死にゆく人の受容までの心理的変化の過程は」、視覚障害と「かなりの程度共通項が出てくるようにみえます」と述べながらも、「障害者は社会的に存続するというところが、大きな違いであり、社会的存続があるからこそ、むしろ問題は重大で困難であることを認識しなければなりません」と指摘しています。障害と死を同じ喪失体験として、一様に扱ってはならない問題だということは分かります。しかしながら、医は仁術というが、診療科によって仁は異なるのでしょうか。それぞれの問題を解決する配慮の根底にある、痛み苦しむ人の助けとなりたいという慈仁に、何ら違いはないでしょう。

高齢社会とは老いた人が増えるだけでなく、病や障害をもって長く生きる人、死を迎える人、それを支える人が増える社会でもあります。そのため、老・病・障害・死にまつわる様々な悩み苦しみが複合し、問題を複雑にしています。各問題への個別の解決策も必要でしょう。けれども、仁という人間愛は、加齢に伴う幾重もの衰退・喪失がつくる諸々の問題を解決するための共通した道標になると思われます。


利他より学び知る道程

新渡戸(2004)は、母のごとく柔和な慈愛である仁(p.52)は、「最高の徳として…人の霊魂の属性中最も高きもの」(p.49)と認めています。そして、「他人の感情を尊敬することから生ずる謙虚・慇懃の心は礼の根本をなす」(p.57)といいます。さらに、「礼の最高の形態は、ほとんど愛に接近する」(p.58)ことから、「高き精神的境地は、礼儀作法によってじっさい到達しうるであろう」(p.61)と論じています。ただし、誠がなければ「礼儀は茶番であり芝居である」(p.65)としています。

定式化して説くことができない慈悲を実践することは、結局のところ相手の利を慮り、誠をもって礼をつくす以外にはなく、それは仁を実践することと等しいのかもしれません。正規の鍼灸マッサージ教育では、宗教である仏教を取り立てて学ぶことはしません。その鍼灸マッサージが仁の精神を学びの入り口として、老いの衰退・喪失への慈しみの心を深めながら、いずれ仏教が説く慈悲を取り戻していくことができるなら無理はなく、医療倫理からみても好ましいのではないでしょうか。


大智度論:梶山雄一・赤松明彦訳(1989)大乗仏典〈中国・日本篇〉第1巻.中央公論社,p.26.

濱塚一英(2006)口語訳 法華経.郁朋社,p.481-482.

貝原益軒:伊藤友信訳(2007)養生訓(47)講談社,p.180-181.

中村元(2012)慈悲(4)講談社,p.21.

新渡戸稲造:矢内原忠雄訳(2004)武士道(82)岩波書店.

野上俊静・小川貫弌・牧田諦亮・野村耀昌・佐藤達玄(1991)仏教史概説 中国篇(18)平楽寺書店,p.16-17.

論語:加地伸行訳注(2012)論語(12)講談社,p.23.

新村拓(1995)死と病と看護の社会史(4)法政大学出版局.

若倉雅登(2003)中途視覚障害者の心理的ケア-眼科臨床の視点.河野友信・若倉雅登編,中途視覚障害者のストレスと心理臨床.銀海舎,p.13.

横井清(2008)中世民衆の生活文化 下.講談社,p.161.

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